こんにちは。
純炭社長の樋口です。
このブログでは腎臓病治療に生涯をささげた純炭社長のインサイドストーリーを(恥ずかしながら)ご紹介します。

幼少期:かけ算を習わずに迎えた小学校3年生
わたしは、父から「正人」という名前と「糖尿病体質」を授かりました。
新潟市立内野小学校2年生のときにはリウマチ熱という病気に罹り、3学期は1日も登校できず、かけ算を習わないまま3年生に進級。
病気を経験したためか「医者になりたい!」という想いが芽生えました。
しかし、群馬県立前橋高校2年生の時に勉強につまずきます。
自分の努力不足を棚に上げ、学力不足や経済力不足を逃げ道にして医学部進学をあえなく断念。
しかし、医学の世界が諦めきれずに千葉大学理学部生物学科に進学。
やがて、中外製薬の新薬研究所に就職しました。
尿まみれの腎性貧血治療薬開発

新薬開発は10年以上の歳月と500億円の費用が必要ですが、成功確率は0.008%しかない厳しい世界。
定年までひとつも薬を開発できない研究員は珍しくありません。
そんな中、わたしは1985年当時、海の物とも山の物ともつかなかったバイオ医薬の開発チームに配属されます。「腎臓病に伴う貧血の特効薬を開発すること」がミッションです。
1950年代まで腎臓病は移植しか治療法がない死の病でした。
1970年代以降、血液透析が普及してからは生物学的な死こそ免れるようにはなりましたが、重度の貧血による動悸息切れで階段も登れず、仕事に就くこともできず、社会的な死は克服できていませんでした。
ですから、腎性貧血治療薬の開発は社会的意義の大きいテーマだったのです。
しかし、当時の透析患者数はたったの20万人で(例えば、糖尿病は予備軍を含めると1400万人もいます)、売上予測も30億円程度で会社の儲けもわずか。
更に1年半も研究を先行しているキリンビール医薬部門を追いかける最悪な状況で開発チームが組織されました。
失敗を嫌う日本社会では、生え抜きの(賢い)研究員は成功確率が低い研究テーマを嫌います。
配属された開発チームは中途入社や新入社員、(才能はあるが)ちょっと問題を抱えた研究員からなる外人部隊でした。
腎臓が作る造血ホルモンは再生不良性貧血の患者さんの尿に大量に含まれています。

そこで日本全国の血液内科にフリーザーと蓄尿容器を設置し、冷凍した新鮮な尿を研究所に送ってもらっていました。
朝8時に高田馬場(東京都豊島区)の研究所に出社。白衣に着替えたら、200リットルの凍った黄色い尿を天日でとかします。それを遠心分離して200倍に濃縮するという作業が翌朝まで続きました。
尿を扱っているのでとうぜんニオイます。
やがて研究所の母屋から追い出され、薄暗い中庭のプレハブ小屋で徹夜作業を行うようになりました。
今ならブラック企業と呼ばれそうな仕事環境でしたが、当時はなぜか気持ちが充実していて、開発が失敗するなどこれっぽっちも思いませんでした。

新薬開発はフタを開けてみないとわからないもので、5年後にはキリンビールと同時発売にこぎつけます。なんと、腎性貧血治療薬「エポジン」の年商はライバル会社を大きく引き離す850億円を達成し、中外製薬のフラッグシップ商品に躍り出たのです。
貧血で階段を登れなかった透析患者さんがいました。
ある朝、彼女が階段を駆け上がり、飲食店の厨房で元気に働いている姿を目の当たりにして涙がこぼれたことを今でも思い出します。

脱サラと独立
「エポジン」の成功で会社は大いに潤いました。
しかし、外人部隊が達成した快挙を生え抜き社員が面白く思う訳がありません。
ドラマ半沢直樹のような派閥争いや不可解な人事、研究チームの解体などが次々と起こり、「生活のためにこのまま今の会社に居続けていて良いのか?」と思うようになりました。
そんな時に非常勤講師を務めていた大学内に新設されたベンチャー企業に誘われます。しかし、高1の息子と中2の娘を抱える親として、中外製薬を辞めて大丈夫か?悩み続ける日々が続きます。
エポジンが最高益を達成した4年後の2008年、冬。
家族を沼津に残し、雪降る米原駅で北陸線に乗り換えて金沢駅に降り立ちました。あの時の寂しさは今も忘れることが出来ません。
大学ベンチャーでは1滴の血液で将来の病気を予想するシステムを開発していました。しかし、「あなたは5年後にアルツハイマー病になります」と診断されても、治療法や予防法が無いことには不安感を与えるだけで意味がありません。
「薬のように外から何かを加える健康法ではなく、病気の原因物質を体の外へ出す健康法ができないものか?」と考えていた時、取引先の社長さんが繊維状の細長い炭を持って現れました。電気を流すと真っ赤に発熱します。
この炭を医学の分野で使えないか?という訳です。
試しに血液に炭を浸してみると病気の原因物質が吸着されるではありませんか!。
炭を使った「出すテクノロジー」で健康を守ることができるかもしれない!
これが(株)ダステック創業のきっかけでした。
試行錯誤の炭開発

最初に使った炭は中国製の布を炭にしたものでしたが、発がん性の染料が使われていて医療用には使えません。
そこで、竹・米ぬか・海藻・綿花・寒天・コーヒーなどを手当たり次第に炭にして実験する日々が続きました。
しかし、満足する性能は得られません。
同じ材料でも炭化条件によって全く性質の違う炭ができてしまう。
その上、植物を炭にすると鉛やヒ素などの有害な重金属が炭の中に残ることもあり、「植物を材料にしたのでは、同じ品質の炭を安定的に製造することはできない!」という結論に達してしまいました。
暗雲垂れ込めるなか、知人が「うちの会社の商品にこんなものがあるんだけど」と紹介してくれたのが結晶セルロース(食物繊維)でした。
食品や医薬品原料として使われる結晶セルロースを電気炉で衛生的に焼成することで、品質管理された食用炭を安定的に製造することに成功し、日本と米国で特許を取得。安全性を確かめるための動物試験も行って、やっと製品化にこぎつけました。
月末には胃が痛くなる会社経営

世界一安全な食用炭を自負して開発した純炭粉末ですが、大塚製薬や、富士フィルム、ハウス食品といった大手メーカーに売り込みに行っても全く相手にされません。
自社ブランドの健康食品も製造してみますが、ご多分にもれず全く売れません。
月末になると胃が痛くなる日々が続いたある日、腎臓病の編集長が出版している健康雑誌から取材の依頼が来たのです。
健康雑誌への記事掲載と雑誌通販会社への卸売りによって、なんとか会社を維持できるようになりましたが、卸売だけでは利益が上がりません。
直販を狙った自社サイトの売上も思うように伸びません。
SEO対策に数百万円をつぎ込んでも、全く効果なし。
そこでリアルな対人関係を大切にする方針に切り替え、展示会への出展やSNS・ブログを使った情報発信に力を入れることにしました。
「消費者はモノではなく、ものがたりを買う」
「中小企業は社長が広告塔」
と自らに言い聞かせながら、(本当は対人関係が苦手なのに)異業種交流会や勉強会に参加するようになりました。
その甲斐あってか、石川県出身のパティシエ辻口博啓さんの「黒のバウム」に純炭粉末が採用となり、大手化粧品会社の健康食品や化粧品にも「純炭粉末」が配合されるようになりました。

わたしの夢は「この世から透析患者をなくすこと」
日本人の平均寿命は男女ともにトップクラスですが、平均寿命と健康寿命の間には大きな乖離があることはあまり知られていません。
男性は9年間、女性は11年以上も透析のような何らかの病気を抱えながら晩年を過ごしているのです。

健康寿命を延ばすことができれば国民医療費を削減でき、教育や福祉に予算を回すことができます。
健康寿命を延ばすことができれば元気に働ける期間が延び、少子高齢化による労働人口の減少にも対処することができます。
「想像できることは創造できる!」そんな警句があるそうです。
わたしが想像する未来は「透析患者がいない未来」
純炭粉末の「出す健康法」で健康寿命をのばすことがダステックの使命です。
【純炭粉末公式専門店】は→こちら
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